インタビュー

【うさぎうい】親に捨てられ施設で初対面する実姉 そして場所を求めて行き着いた歌舞伎町  FUYUTSUKI -DeZon-

今月の足跡はスペシャル版!冬月グループHOLDINGSの「FUYUTSUKI -DeZon-」にて、絶賛、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を集めている”うさぎうい“が、波乱すぎる半生を語ってくれた。ぶっちゃけドラマ化出来る内容ですけど!!

中2で施設に預けられ そこで知った実姉の存在

地元・山梨で、父が17歳、母が16歳の時に生まれました。ちょうど5歳ずつ離れている妹が2人いて、小学校5年生の時には、父の姿は家にはありませんでした。父方の祖父はびっくりするぐらいの金持ちだったのですが、母は一切援助を受けず、僕ら3人を育てるために介護などのバイトをしていましたが、どれも長く続かず、日々の生活はとても苦しかった記憶があります。さらに、何かあると僕に当たるようになっていて、常にたんこぶがあり、体にはいつもアザがあるのが当たり前でした。相当、精神的に参っていたということと、僕が父親似であることが原因だったと思います。そもそも、父がいたときから、2人からは暴力を受けていて、父はゲームで負けると「お前がストレスを与えているからクリアできない」と理不尽な理由で殴られていましたけどね。

3年後の中2のある日。朝起きて、リビングに行くと知らないスーツを着た男女2人がいました。すると母が「今日からお前を引き取ってくれる施設の方だよ」と紹介してきたのです。今日から?引き取る?施設?と、一瞬何を言っているのかわかりませんでしたが、若い僕は吸収するのが早く、すぐに理解できました。「僕は捨てられるのだ」と。しかし「施設で生活する=暴力からの解放」が頭を過ぎった僕は、特に抵抗することなく、すんなりと受け入れました。そして荷物をまとめ、準備が出来ると、施設の方が「お母さん、施設まで送って行きますか?」と聞くと、即答で「いいです」と答えていたのは、今でも鮮明に覚えています(笑)。

その施設には小中高生がいて、僕と同じ中学生は男女合わせて15人ほど。小学生はもっと多いのですが、里子に出ていくのは小学生の子が圧倒的に多くて、気づけばいなくなっている子がちょいちょいいましたね。ちょっと脱線になっちゃいますが、僕がいた施設だけかもしれないけど、里子として引き取られていくのはペットショップと同じで若い子が人気でした。しかも親がいない子、貧乏だった子からいなくなっていました。逆に僕のように親がいる子には声はかかりにくいようでした(笑)。まあ、そんなこんなで施設での生活がスタートしたわけですが、年頃なので相部屋になるのは同性でなくてはいけないのですが、なぜか僕は1個上の女子でした。変だなとは思いつつも、言われるがままに同じ部屋になったわけですが、お互い気まずく、必要最低限の事以外は喋らない日が続きました。その女の子はやたらぷよぷよが上手く、その日もいつものように黙々と連鎖をしていたのですが、画面がフリーズしリセットしたと思ったら「私、アナタのお姉ちゃんだから」と突然言われたのです。

意味がさっぱりわかりませんでした。さすがに理解するには情報が足りなすぎて信じられなかったのですが、施設の方を交えて3人で話し合いがあり、改めて聞くと、本当に実姉であったことがわかったのです。姉は生まれてすぐに「赤ちゃんポスト」に預けられたようで、実の姉弟であれば同室でも問題ないということだったみたいです(笑)。ということで、僕は4人兄妹だった事をこの時に知りました。ちなみにですが、母とは月に1回会うようになっていて、僕を迎えに来た母を姉はずっと睨んでいました。そんな姉を見た母は「毎回やたらと目つきの悪い女の子がこっちを見ていると」と、実の子とは知らずにめちゃくちゃ言っていましたけどね(笑)。そんな姉ですが、数年後に韓国へ整形に行ったついでに、ぷよぷよの世界大会に出場して、3位の成績をおさめることになります。しかし、その対決の時の態度があまりにも悪く、ネットで「日本の恥」と叩かれることに(笑)。

その年のクリスマスです。母が当時流行っていた、やたらと装飾が施されたベイブレードとビーダマンのおもちゃをプレゼントしてくれたのです。

本当に嬉しかったですね。ただ、親がいない、会えない周りの子たちにとっては、相当羨ましく映ったのでしょうね。次の日の朝、枕元に置いてあったこの2つのおもちゃは、骨組みだけが残り、無残な姿になっていました。何も信じられなかった僕は、その日から近くの墓地の墓石の漢字を見るようになって過ごすことになります。

墓石を見て過ごす日々が続いていたある日、同じ施設の先輩から話しかけられました。「お前、毎日何をやっているんだ?」と。僕は正直に「墓石の漢字を覚えています」と答えると、「幼稚園からここにいるけど、墓石をずっと眺めているのはお前が初めて」だと珍しがり、続けて「ついてこい」と、どこかに連れて行かれたのです。僕はボコられるのかなと思っていたのですが、着いた場所はBARで、そこで今日から働けと言われたのです。その先輩はギャングのトップだったようで、BARの店長的な事をやっていて、やたらとお金を持っていました。仲間には優しいし、お金を作る事が天才的で、僕はいつのまにか先輩を尊敬し依存するようになっていったのです。

「お前は真人間になれ」歌舞伎で見つけた居場所

BARでは真っ黒な事が当たり前のように行われていましたが、特に気にすることなく、僕も当たり前のようにそこに通うように。ほぼ、そこに住んでいたに近いですね。今でも覚えている光景の1つなのですが、3段のカラーボックス全ての段に酒が注がれ、それを全て飲まされている人がいました。段々と酒が濁っていくのは、ゲロを吐きながら飲み続けているわけですが、その光景がトラウマの1つとなり、おかげで僕は酒が嫌いになりました。まだあります。ある日、喧嘩しながら2人のヤクザがお店に入ってきたのですが、割って入った店員が「どうでもいいですけど、セット料金だけ払ってもらっていいですか?」と言って、その後ボコボコにされながらもきっちり6000円もらってきたのにはびっくりしましたね(笑)。

誰でも入れる県でもトップクラスのバカ高校に入学しましたが、ろくに学校にも行かず、BARで働く毎日だったので、早い段階で単位が足りなくなり、進級できないことがわかっていました。そんな時に、BARではクリスマス時期を迎えようとしていて、益々忙しくなっていたので、これを機に退学をすることにしたのです。ただ、どうやって辞めるのかわからなかったので、紙に「やめます」と一言書いて、先生に提出しました。後日、施設の人と交えて話し合い、正式に高校を辞めることになると、それからはがっつりBARで過ごすことになります。後日談ですが、高校は通信で再入学して卒業までしました。

BARは高校のように簡単には辞めることが出来ない事を悟り、昔から描いていた「お笑い芸人」の夢も諦めかけていました。しかし18歳の春に、例の先輩が「お前を飛ばしてやる。お前は真人間になれ」と言ってくれたのです。そして、山梨から新宿まで車で送ってくれて、最後に「俺も含めて全ての連絡を断て。もしどこかで俺らとすれ違っても知らないフリをしろ」と告げられ、新宿駅で降りて、そのまま別れました。

新宿駅で降ろされたものの、何をどうして良いのかわからず、とりあえず先に東京に着ていた姉に連絡して2日間泊めてもらいました。その後、当面の衣食住を賄うために寮のあるホストに入店したのですが、1店舗目のそこは全く馴染めず、他のお店を探している時に“くまの心 社長”に出会い、直感で自分の上司になると思ったのです。ただ、そこまで長く働くつもりはなく、お笑い芸人になるための資金作りと思って始めたのですが、BARで培った経験が思いの外炸裂して、なんだか売れちゃって、気づけば3年目に突入しました(笑)。そして、昨年の12月には、親の借金1000万近くを完済することも出来たんですよ。

こうして振り返ってみると、結構な人生ですね(笑)。若い時にこんな経験をしたものですから、歌舞伎に来てからのあらゆる出来事も、何とも思いません。なぜならば、地元・山梨での経験は、歌舞伎町よりもずっと龍が如くの世界でしたから(笑)。実は今回お話したのはかなり端折っていたりします。高2の時に祖父の元に預けられるのですが、祖母は統○教会信者で、ずっと僕は「悪魔の子」と呼ばれていたり…など、まだまだネタはあるんですよ(笑)。続きはお店で話しましょう♪

うさぎういの歩み「UI HISTORY」

  • 11歳

    お父さんがいなくなる

  • 14歳

    施設に入り、実のお姉ちゃんと出会う

  • 15歳

    BARに勤務

  • 16歳

    高校を中退

  • 18歳

    歌舞伎町でホストデビュー

  • 20歳

    支配人に

ショップデータ

店名FUYUTSUKI -DeZon-(フユツキ ディゾン)
TEL03-6457-3101
住所東京都新宿区歌舞伎町2-23-1 風林会館6階
ウェブサイトhttps://fghd.jp/